縄文の頃へ

 

 29日、京都大学総合博物館において、特別展「火焔型土器と西の縄文」を観覧しました。燃えさかる炎のような意匠で、見るものに強烈な印象を残す火焔型土器。いわゆる「縄文土器」の一類型とされますが、一般にみられる縄を擦り付けたような文様ではなく、粘土によって立体的に造形された文様が特徴です。地域性を感じさせますね。

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 出土地域はほぼ現在の新潟県。このため京大博と新潟県立歴史博物館、信濃川火焔街道連携協議会が主催者に名を連ねています。アンケート調査でも「展示を見て、新潟県に行きたいと思うようになりましたか?」との問いもあり、考古学を地元の魅力にアピールするような「観光」も念頭に置いた展覧会であることが読み取れます。確かに京都は全国各地、ひいては世界からも人が来る場所ですから、情報発信への効果が期待できますね。当日も外国人の方が土器を見て唸っておられましたし。

 このように火焔型土器は主に現在の新潟県を中心に発見されています。一方、「西の縄文」では、京大が1世紀をかけて積み重ねた西日本における出土品が紹介されています。ただし、ほとんどがバラバラに砕けていて、新潟のモノと比べると地味なものは多いです。やはり縄文時代は東日本における文化のほうが盛んだったのかもしれませんね。

 文化と書きましたが、東日本の縄文土器は極めて特徴的でした。火焔型一つとっても立体的で見る者を引き付けて離さないような芸術性を感じさせる代物ばかりです。案内文によると意匠を施すこと自体、実用性には寄与しなかったとみられるそうで、むしろ逆効果だったとか。しかし、それらには縄文人が実用性を捨てても表現したかった何らかの「心」が現れていると考えられているそうな。かの岡本太郎が唸った気持ちがわからんでもなかったですね。

 出口を抜けるとすぐにアンケート調査コーナーがありました。今回はアンケートに答えると先着で「展示会目録」が無料で配布されています。展示品についての詳しい説明もあるので、ぜひ手に入れましょう。

 そのほか常設展なども見学。こちらは、撮影禁止です。あ、そうだ、特別展は主催者側のご厚意で撮影許可が出ているそうで、何枚も写真を撮らせてもらいました。フラッシュは炊かないようにとのことですので、ご注意ください。

 祖先の培った古き文化に思いを馳せることのできる素晴らしい展覧会でした。

 

 展覧会終了後は新設された「京都市総合資料館歴彩館」に立ち寄りました。歴史に彩られた素晴らしい資料館であり、図書館でもある研究拠点です。

歴史好きにはたまらない施設ですね。

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麦屋踊

 三連休の1日目。南砺市旧城端地域で「むぎや祭り」が開催されました。

 城端といえば、城端別院善徳寺の門前町として栄え、古くからの伝統を感じさせる情緒ある街並みで知られています。昨年には「曳山」がユネスコ無形文化遺産に登録され、県内外からの観光客でにぎわっています。この曳山と並ぶ伝統行事として「むぎや祭り」が行われています。「春の曳山、秋のむぎや。」城端の季節を彩るお祭りの一つが、今回のむぎや踊りなのです。伝統的な衣装に身を包んだ男女が舞を披露します。

 踊りといえば、富山県は「おわら風の盆」が有名です。

 おわらは、県東部の旧八尾町で開催されるお祭りです。年間来場者数は約10万人。県内外からの観光客で有名なお祭りです。一方むぎやは県西部のおまつりです。

 むぎやとおわらの違い。最も大きな違いは、踊り手の姿ではないでしょうか。おわらでは、庶民といいますか、百姓の男女が帽子で顔を隠して、農作業を表した踊りを踊っています。たいして、麦屋の場合には男女ともに顔を隠さず、男性は帯刀した袴姿で踊り、女性は色鮮やかな着物でたおやかに踊っています。

 実は麦屋節は、戦乱を逃れ山奥に移り住んだ落人たちの音色といわれています。南砺市利賀地区には世界遺産五箇山集落があります。かの地には「平家の落人」の伝説があり、源氏に敗れた平家の侍が、人里離れた山奥に築いたのが現在の合掌集落だったのです。慣れない農作業と養蚕に勤しむ暮らしの中で、都を偲んで踊ったのが「むぎや踊り」とされ、今に伝わっています。すなわち、落ち延びれども武家の踊りなのです。

 そういわれてみると、どこか気品のある踊りであるとも感じられます。数百年前に都を追われた人々が、遠くの山の先にあるであろう都を偲んだむぎや踊り。たいして越中の百姓が、日々の暮らしを踊りに現し洗練させたおわら踊り。

 それぞれの地域に残る舞踊や民謡は、まさに遠き先祖たちの記憶を引きつぐ伝統行事なのですね。

 なお、おわら節は近代、おおむね大正時代ごろに新進気鋭の民謡作家らの協力で今に伝わる音色に生まれ変わったといわれています。大正期の銀座の百貨店などでも、おわらは披露され、一躍全国区の舞踊として知られるようになりました。(『歴史と観光』)

 むぎや踊りも有名ではありますが、おわらの後塵を拝する面は否めません…。

どちらもよいお祭り。むしろ、混雑の面では麦屋のほうが落ち着いて見られる点で軍配が上がっていると思います。近年では、伝統的な町内踊りに加え、県内外の団体の参加を募った「よさこい」も併催されており、盛り上がりを見せています。ミュージカル調の団体もあって、結構楽しんでみることができました。若者参加で楽しめる祭りが「むぎや祭り」ではないでしょうか。

 2012年には、PAworksが制作したアニメ「True tears」の舞台にもなり、「むぎは踊り」としても登場しています。インドアのアニメ好きの方々も、足を運んでいます。

 9月、おわらの後はむぎや。ぜひとも城端線を活用し、秋の涼しい城端で独特の情緒を感じてみてください。

 

結果発表

 本日は映画「関ヶ原」を鑑賞したが、どうにも無邪気に映画を楽しめない。言わば心ここにあらずとよく言ったような顔色をしていたと思う。それと言うのも、今日は自治体の結果発表だったからだ。結果は....。

映画自体は「面白かった」

関ヶ原に到る流れなどは、予備知識があれば「ああ、あれね」と言った具合に理解でき、映像もなかなか悪くなかった。例えば、寺社仏閣でのシーンなどは、柱と広間のバランス、奥行きがよく生きており、自らを鼓舞せんが為に堂内を走り回る武将の姿などが印象的に描かれていた。

 合戦シーンについても、地上波であるがために自重を余儀なくされる血飛沫や切断など、合戦のリアルな一面を捉える意欲的な描写が少なくない。関ヶ原の戦い(1600年)を描いた作品としては、NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」(2000年)が代表的だけれども、戦闘描写に関しては映画に軍配があがると思う。

 反面で、例えば大河と比べると「現代劇」要素が強い。もちろん、劇作品なので良いのだけれども、ジェームズ三木などの従来型時代劇路線を求める人には不満であるかもしれぬ。

 個人的には、視聴しながら「シン・ゴジラ」タッチで庵野・樋口監督作や「パト2」で押井守監督による関ヶ原が見たいと思ってしまった。関ヶ原をめぐる駆け引きなどは本作でも十分面白いが、今あげた監督たちの筆致だとさらに面白く感じられると想像してしまう。戦争描かせたらピカイチやしな笑

 総じて、主従関係を超えた可能性を感じられる描写は若い人には受けるかもしれない。史実好きには物足りないし、史実好きが許容できる劇的な脚本では無いとの印象を持った。しかし、現在の映画業界にあって、良い作品であったと言って良いと思う。

  さて、映画をみ終えると次は所用があったので市内を移動。実に不便な都市交通を実感。

 夕刻、いよいよ結果発表の刻限となった。最終面接の風景が頭をよぎり、もうダメだと思いつつ、ページを開いた。

 番号は....

 

 

あった。

 

 

 

1年半に及ぶ闘いがようやく、終戦した。

思えば、3年半前の「敗戦」から良くぞ復興を遂げ、飛躍を遂げたと言わざるを得ない。いくら挫けても諦めず、常に上を向いて行動し続けたことで今があると、素直に思った。

 すぐさま地域の神社仏閣に参拝。報告とお礼参りを行なった。地域にある神々は、まさに町の発展と人々の繁栄の象徴で、私は報告とともに、地域がこれからも続いていくように頑張ると神仏にお伝えし、努力を決意した。

 護国神社においては、英霊が守られようとされた郷土とご子孫の繁栄への助力を奏した。

 いずれにせよ、これからだと言わざるを得ない。頑張ろう。

 

利賀大橋について

利賀大橋。

 この橋の名を聞いて、反応できる人間はよほどの「廃道マニア」か、あるいは地元住民ではないだろうか。私などは高校時代に、よっきれん氏の「山さいがねが」というHPでレポートを読んだことでハマってしまった。あのレポートの完成度は素晴らしいものがある。実際の探索と後日の忠実な研究。まさしく、見習いたいものである。

 それはさておいて、これほど「歴史」に対する好奇心を今の我々に抱かせる橋はないだろう。小牧ダムから上流に1㎞ほど行ったところ、国道156号線を岐阜方向にむかうと左側に、古びた橋脚の跡が見えてくる。対岸の橋脚はアーチ状の橋を併設しており、吊り橋部分を失った橋脚は「哀愁」とか、とにかく心に「ぐっとくる」。

 グッとくると同時に、「なぜ?」という疑問がわいてくる。「この古びた橋脚は何故ここにあるのだろうか。」「いつからあるのだろうか」、「どうして今は渡れないのか」

 大学時代の恩師の言葉に「歴史とは、過去に問を発したときに生まれる」いや、「過去に問を発したと同時に、人は誰もが歴史家となる」という言葉だったか。これほどこの言葉通りの状況に陥らせる橋はないだろう。これこそが多くの人を虜にする理由かもしれない。そして、私もまだ「虜」の一人だ。

 30日に、地元・自治体の図書館を尋ねた。

ここは県内の総合的な公文書館も併設した図書館であり、素人目にも自治体や郷土資料に関しては充実している印象があった。とりあえず郷土資料のうち「利賀」「庄川」「橋梁」「土木」等を念頭に置いて探索した。基礎資料としての『利賀村史』を紐解き、利賀大橋に関する事実関係を確認。ついでに隣に置かれていた利賀村の関係者による随想録を確認すれば、利賀大橋の画像が掲載されているではないか。

 そこには大橋を渡過した際の感覚も記されていた。記述によると「怖い」との記述があり、自動車での渡過は可能であったものの、渡るものに恐怖を抱かせる様態であったという。現場を実際に歩いた人の記録は文書としては少ない。貴重な発見の一つであった。さらに驚かされたのは、写真には対岸に小屋らしき「建屋」が確認できたことだろう。他の資料に記載されていた「バス停」なるものである可能性があるけれども、あの吊り橋をバスで渡っていたという事実にはにわかに信じられないものがあろう。

 とりあえず、

・新しい橋の画像(国道156下流方向から対岸のアーチ橋主塔部分を捉えたもの)

・橋の画像には何らかの建屋らしきもの

・実際に渡過した郷土の方の証言

などが新事実であった。

また、従来より判明していたものの、今回の探索で非常に鍵を握った事実関係として、

・昭和20年に雪崩により落橋

・昭和21年11月17日復旧

・昭和22年2月21日再び雪崩による落橋

・昭和23年10月20日復旧

以上の事実関係を確認。

 閲覧室で確認できる内容は以上が限界であった。

 続いて、新聞雑誌閲覧室へ移動し、明治から現在までの新聞(地方紙)の記録を確認した。過去の記録についてはほとんどがPDFとされ、1976年以降の資料はキーワード検索が可能であった。

 76年といえば昭和51年。よっきれん氏のレポートによると、昭和50年代に橋は火災により通行不能に陥ったとされている。よって、火災などの記事が発見される可能性はあったため、すぐさま「利賀大橋」と打ち込んだ。

 20件近くヒットしたものからいくつか重要なものを確認した。

そして…。ついに…。

北日本新聞(昭和54年(1979年)12月11日 火曜日)13面

「名所・名物ここにも<6>利賀大橋 庄川観光のシンボル 老朽化で無用の長物に」

以上の記事を発見した。

 

 庄川の小牧ダムから約1㌔上流の湖面をまたぐつり橋「利賀大橋」はポスターなどで庄川観光のシンボル扱いとなっているが、本当は橋板がすっかり落ちて通行できない無用の長物-といったら観光客をがっかりさせるだろうかー。

 このつり橋は庄川峡をはさんで国道156号と利賀村の仙野原をつなぐもので延長百三十㍍、幅員三㍍。昭和一二年に架設され、戦後の二十三年に雪崩で落ちたが、すぐ架け替えられた。しかし仙野原の集落が過疎化で消え、利用者が少なくなったこと、老朽化が進み補修に手が回らないうえ、吊り橋が風に揺れる際に摩さつが原因で再三火災が発生。橋板が次々焼け落ちたことなどから四十五に通行止めとなった。

 その後、風雪に耐えきれなくなった橋板が垂れさがり、この下を通る庄川観光の遊覧船から「万一事故があっては」と苦情が出たりした。このため利賀村は一昨年、危険な橋板だけを取り除いたが、両岸を結ぶワイヤロープなどはそのまま残した。

 橋の架かる地点は庄川と利賀川の合流点で湖面が広く、遊覧船と山峡美が最も映える場所。村ではワイヤロープなどを撤去しなかったことについて「橋として使用できないが、庄川峡観光にも一役買っているとの感じもあるので当分はこのままで・・・」と語っている。

 静かな湖面を滑るように走る白い遊覧船につり橋の風情をプラスした渓谷美は一幅の絵を見るようで、秘境ムードをかきたてる。そのためか、庄川観光をPRするためのパンフレットやポスター、印刷物の表紙などには必ずと言っていいほどこのつり橋が登場。観光客に「あのつり橋を渡ってみたい」といった気持ちを起こさせているが、その半面、過疎の村を離れた人たちから「過疎の残がいをみるようで心苦しい」との声も出て、残すか、撤去するか、吊り橋は両論のなかで揺れ動いている。

 …。と。まあ結論は「撤去」だったんですね。

 郷土誌として有名な新聞社で、私も今年度就職試験に応募して見事落選してしまった((笑)記者職は無謀であったろうか。まあ、文章センスがなかったんでしょう。

 以上の引用記事から、これまで不明だった詳細が鮮明になった。

 まず、よっきれん氏の記事のラスト。「火災による通行不能」はほぼ正解であったが、火災発生の原因が、吊り橋が風に揺れることから起きる摩擦による自然発火であったことが浮き彫りになった。しかも、繰り返し橋板の各所が燃えていたことになろう。

 よっき氏の探索でも、主塔付近には激しい風が吹いていることがわかっている。ましてや吊り橋部分の風は湖面上であり、さらに強い風を受けていたことであろう。

 さらに通行禁止となった年が「昭和45年(1970年)」であることが判明した。これまでは50年代との説が通説であったが、少々遡った。橋板撤去の時期についても、昭和52年(1977年)であることがほぼ確定。ワイヤロープに関しては、平成に入ってから撤去されたことが村史より明らかとなっており、それまで旧状を偲ばせるものとしてその役割を発揮していたものが、撤去の方針に傾いたものと推定される。

 今後は、平成年間の橋の撤去について、時期と事情等が明らかになれば、橋を巡る詳細がほぼ判明するだろう。

 それにしても、この橋…。どんな姿になっても強烈なインパクトを我々に与える。

 

 利賀村の住民にとって、近代とは「陸の孤島」からの飛躍を死活の命題として闘った時代であったと、村史は伝えている。小牧ダムの整備により新たな橋を要した村は幾度とない落橋にも負けず、陳情と交渉を続けた。そこには村の人々の熱意と情熱があり、この橋はまさに村の歴史を体現する象徴であった。ところが「現代」に入り、村を襲ったのは過疎化の進展であった。あの日橋を勝ち取った住民の姿は一人、また一人と去っていく。去っていったものたちに朽ちる橋はどのように映ったか。新聞記事は「過疎の象徴」との声を拾っている。

 人はいつまでも「そこにあるもの」に対して意味づけを辞めない。あらゆるものは新鮮さを帯び、やがて朽ちていく。先刻まさに建設を終えた北陸新幹線、新港大橋も時代の荒波に飲まれ、やがては、新しい意味を帯びていくことだろう。その意味ができれば華やかなものであってほしいけれど、それはわからない。

 吊り橋を失い、両岸を結ぶ機能を失った利賀大橋は今もなお、人を引き付けてやまない。見るものに意味を考えさせ、やがて、意味を見出させる。あの橋が結んでいるのは、今を生きる人々と過去に生きていた人々の間の懸隔かもしれない。

おしまい。

最終面接が終了

とある自治体の最終面接を終えた。

正直のところ、あまり自信がない。

 

しかし、まあ、あるがままに。としか言いようがないだろう

最終試験前に

何をすべきか。

 

そんなことより

例ごとく、小室哲哉作曲の楽曲ばかり聞いてる22歳です。最近は、globe中心に安室奈美恵やtrf等を聞いていますが、世代じゃないのに「懐かしい」気持ちになるのは、世間の影響でしょうかね。

私としては、作曲家・小室哲哉の生き様がものすごく好きなんですよね。

一塊の田舎者に過ぎない私なので、別に何書いても戯言ですから好きなように書きます。「栄枯盛衰」まさにこの言葉がしっくりくるというか。

他にも「因果応報」あるいは「自業自得」という言葉が当てはまります。ちょっとネガティブなワードが並んでいますけれども。

1980年代後半からTM Networkで第一次の全盛期を迎え、

1990年代以降はプロデュース業で文字通りJpopの天下を獲った男なんですよね。

それが1997年の安室奈美恵「Can you celeblate」(タイトル)の222万枚のミリオンヒット以降は、セールスに陰りが見え始め、相次ぐ独立によって「小室ファミリー」は崩壊。最後の砦たるglobeも時代の流れには抗えなかったというのが、一般的な史観だと思います。まあ、妥当なところでしょう。

人間関係もまあまあひどい。若い娘に手を出して、結局捨てて、今の嫁。

若い娘はその後ずいぶん苦しんだという専らの噂でしたね。

 

そして、00年代には刑事告発。逮捕拘禁の上、執行猶予付きの有罪判決。

既に作曲の権利は他社に渡っていたと。さらに追い打ちをかけるように、嫁さんが病気…

まさに平安時代の物語みたいな(笑)

まあ栄えるものはいずれはすたれていく。しかし、その中で本当の幸せを見つけているのかもしれないという、一般人から見ればこういう見方でみれるわけだと。

 

一次に合格。

 

最近、対策の合間を縫ってお笑い動画を見ている。明石家さんまの最近のレギュラー番組、向上委員会。

 

明石家さんまの姿を見てると、「さんま政権」という言葉が浮かんでくる。

さんまといえばお笑いBig3の一角であるが、彼らを比較すると、2014年のいいとも終了を分水嶺タモリ・たけしとさんまの間には大きな性質の違いが生じている。

 

カノッサの屈辱的に言えば、

1990年代までに「お笑い三頭政治」最盛期を迎えたが、2010年代後半に三頭政治は終焉。さんまのみが帝政を敷くこととなったといったところか。

現実戻り

中堅・若手芸人との一線級の絡みができるのはさんまのみ。

そして、さんまは中堅・若手に対してはお笑いの首相といってもいい地位に見える。

いつ引退するのか。