卒論

 私は「卒論」を書きたいのだろうか。今日も先行論文を眺めながら一日が過ぎてしまった。碌に文章も読まず、息詰まればYoutubeで古い音楽を聞く。こんなことがしたかったのかを少し後悔してしまう。すなわち、このような時間を過ごしていていいのかという危機感もある。

 既に就職活動は終了した。それなりに満足のいく結果ではあったので、あとは遊ぶだけという思いもあるけれど、私にはすべきことがあると思った。それは、私が大学生であるという存在の証明をする作業であると思っていた。

 しかし、一向に進まない。

 私の所属する大学の卒業要件は「卒業要件単位数の満了」である。つまり「卒業研究並びにその成果たる卒論」の作成・提出は要件にはない。このため、卒論未提出であっても4年制大学卒学位「学士」が授けられる。

 私は本学における論文未提出者の学位授与を快くは思っていない。なぜなら、「大学に行く」ということはこれまでの教育課程を離れ、自主的に学究を行う経験をすることを要請されると考えるからだ。あらゆる事物、存在を自らの論理的な思考に基づき整理し、新しい考えを生み出す。これが、学士の学位を持つ者の要件ではないだろうか。

 以上の考えは、私を呪縛し続けている。だが、文章に起こしたのはこれが初めてだ。言葉にして、刻まなければ私は動けないのであると思う。自己啓発の意味も込めて。

 話は変わるが、自分の考えを整理する時間はブログでやるのが一番いいと思っている。ブログは人に見られることを前提としている。不特定多数の者が見るということは、当然、文章の誤用は著述者の学識への不信と嘲笑につながりかねない。思想の内容自体を嘲笑されることは対して辛くはないが、文章が下手だといわれるのは我慢ならない。これは私の持つ強い羞恥心の形であるから、ブログを使うのは、羞恥心を利用して自分の考えを整理することに効果があると、私は考えている。

 文章は実にへたくそだ。しかし、書いて書いて書きまくらなければ文章はまっとうにならないと思う。これは卒論にも共通するだろう。文章に戻ろう。

随想

 私は小室哲哉の楽曲が好きなので、当然、彼がプロデュースした安室奈美恵の楽曲も大好きです。最も好きなのは「NEVER END」でしょうかね。2000年、森喜朗内閣での九州沖縄サミットの公式テーマソングになったことで有名ですね。

 各国首脳の前で、ねーばーえんー♪という、まあ、海外視点ではどうだったのかな(笑)なんていうところも含めて、この曲はいいんですよね。彼女のルーツは沖縄にあるようですが、沖縄が帯びる文化と歴史の悲哀のようなものが歌詞からは伝わってくると思うのです。

 次点の「CAN YOU CELEBRATE?」も、似非インテリ勢の言う文法上のミスにも無頓着なので、純粋に曲の調子がいいと思います。この曲は小室哲哉の最高セールスだったと思うのですが、これを頂点に小室時代は終焉を迎えていくというのが、ポピュラー音楽J-POP史の定説だったかと思います。

 終焉へと向かう小室時代の記念碑的作品は「You are the one」。華原朋美、KEIKOと続く最後の高音で、他の追随を許さない圧倒的な歌唱力を見せつける安室奈美恵の姿は、のちに小室ファミリーが「90年代」を象徴する歴史的な存在として刻まれた後も、「今の人」として活躍していくことを示していたのかなと、映像からは感じますね。

 そして、2000年代以降、小室氏を離れ、新境地を開いていきました。

 そんな彼女の引退は、大変な反響を呼んでいます。私の中では、2000年代の「歌姫の時代」に出てくる宇多田ヒカル浜崎あゆみ等とは世代をギリギリ画する存在でありながら、劣化することなく第一線を走り続ける稀有な存在なんですよね。


「namie amuro×docomo 25年の軌跡」篇

 アムラーと呼ばれた人々が年齢相応なのに、本人は容姿をほぼそのままに進化し続ける。何というか、すごい。

 そんな方がもう見ることができなくなるのかと思うと、残念ですね。しかし、40歳を引き際にした決断からは、本人の哲学が感じられます。是非とも引退のその日まで頑張ってほしいものです。

 

京都産業大学の風景

 神山祭が終わって2週間。

ヒラギノ別れを下る道すがら、冷たい風が頬を突き刺すような感覚を覚え、晩秋の訪れを感じました。構内の紅葉も良い頃合いです。

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 美しい風景ですが、見とれているうちに寒さで風邪をひきかねない。防寒対策を忘れずに登山しましょう。また、エスカレーターやエレベーターよりも「階段」を使うと、体が温まっていいかもしれませんね。秋学期もあと少しです。

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第52回 神山祭

 

 11月3日から5日にかけて「第52回神山祭」が開催されています。開学初年より52年目を迎える神山祭。今年のテーマは「colorful」(カラフル)です。多種多様な展示、イベントを通して学生時代を彩る思い出を作ることが趣旨としてあるようです。

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   私の友人も「神山祭実行委員会」に所属していましたが、非常に情熱を持って取り組んでいた姿が印象的です。会場設営や運営など、赤ジャージの皆様には頭が上がらない....と言いつつ、模擬店の準備や片付け等でルール違反があると注意してきたり、罰金取られそうになるなど、実は因縁の団体だったり...。しかし、まぁまずは1日目お疲れ様と言いたいですね

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   会場は勿論「京都産業大学 上賀茂キャンパス」。上賀茂本山と言われる山を切り拓いて作られた構内全体をキャンバスに、展示、模擬店、ステージが設営されています。

   学祭の構成要素....と言われれば、主に「イベント(ステージ)」、「部展(屋内)」、「模擬店(テント)」の3つの要素で成り立っています

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PILOTIS STAGE

   メインステージは構内でも広場的な位置付けのピロティにあり、大規模なイベントやライブが開催されます。特にクライマックスのライブなんかもここでやります。雄飛館と12号館、そして、サギタリウス館に囲まれた場所です。

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LIB-station

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本学での待ち合わせでも、最も多く使われていると思われる中央図書館前の広場にもステージ。ここはまったり系のライブや一芸の場所です。模擬店も近くにあって香ばしい空間ですよ

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Sun Plaza

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ここが意外と盲点。神山ホールの屋上には実は広場があって、そこを神山祭ではステージ会場にしています。主に軽音系の演奏が行われる場所。本学の軽音御三家(軽音部、フォークソング愛好会、フォークトレイン)もここでやってますね。なお軽音3団体は並楽館でまとめて部展をやってます。

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部展は、まあ塩っぱい。

本物の大学、すなわち京都大学の部展はある種模擬店などとの差が曖昧で、実に面白いです。

本学は飲食禁止や教室使用規約などの制限が少なくない。自由度の面では限界があるかもしれない。もしくは、片付けのことを考えてしまう部展担当者も多いからかな...?

それでも部展は、面白い。

うちの学生の大半にはこの面白さは理解できないかもしれない。そういう輩はサークルの模擬店でフランクフルトでも焼いてりゃ良いわけですが

面白い部展の条件として、「知的な要素を用いて、真剣にふざけたり、表現したりしていること」です。そして、「まったり」していること。これがどうしても、活発な人たちや教養のない人には難しいのかもしれない。本学でも、部展の一部にはそういう面白さを帯びたものは間違いなくありますので、その辺を紹介しましょう。

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5号館から

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まずは「電子計算機応用部」...いきなり大物ですね...たまげたなぁ。と、いうのも本学にはコンピュータ理工学部があり、電子情報系の腕に覚えのある学生は少なくない。彼らを主な構成員とする部がここなんです。使い古された技術ではありますが、透過性スクリーンを活用した立体映像表現などを披露しています。

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実に見応えありましたよ。

次に「天文同好会」です。ここはねぇ...なかなか本気の部ですよ。星をこよなく愛する学生たちが空を眺めることの素晴らしさを無学浅学の学徒たちに伝えています。今年は3つの部屋でプラネタリウム、動画放映、模型を通して私たちを「宇宙の旅」に誘います。

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   類似団体に「神山天文台サポートチーム」がありますが、こちらは2013年神山天文台創設時に当局が学生参加を呼びかけたもので、大学組織の傘下団体のようなイメージです。大学行政の管轄も天文台ですしね。この団体は天文台施設を活用した教育活動や観測会などで活躍します。まあ施設の設備を活用できるのは大きいですよね...。神山祭でも望遠鏡を活用した太陽観測を行なっていたり、3D映像の上映を行なっています。

学生部管轄の同好会と天文台管轄のサポートチーム。切磋琢磨して活動は活発化しているような気もします。反面で折角ある設備を活用できないようではもったいない。ぜひともコラボなどを通して、大学設備を有効に活用して欲しいですね

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12号館では

「探検部」でしょうか。今年は随分展示が工夫されていました。映像もお洒落です。部員と話をすれば彼らの冒険譚を聞くことができます。洞窟探検とかね。ここもできれば入部したかった...。

続いて、「琴サークルことこと」なども良いですね。演奏披露はもちろん、実際に演奏体験ができるのも魅力でしょう。体験型の展示は評価が高いものです。

次に「出版研究会」ですかね。出版した雑誌を配布していますし、神山祭のいいお土産になるでしょう。この雑誌、結構良くできています。まあ出来はともかく、この大学に足りてないのは「思想」とか「考え」であるとかねてより思ってます。先生曰く「哲学」ですか。その時々に京産大の学生が何を考えていたか。それを残すことができるのは文章であり、それを刻んだ出版物でしょう。展示には過去の出版物のバックナンバーがあります。1980年代の出版物には、時代の空気や思想が色濃く現れていて読んでいて面白い。うちの大学生ですから、難しいことは言えていません(笑)しかし、今よりも考えを文章に残すことに貪欲な様が感じられました。

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  まあ見るべきものはこんなところですかね。本学の学生とはなんたるかを感じ取るには部展や模擬店を見れば感じられるかと思います。模擬店なんてものはまあ、あんなもんと思って見ておけばいいでしょう。私が展示から感じるのは、やはり本学の学生の「整然とした中での活発さ」であると思います。運営や当局、学生たちの集団によって形作られた秩序の中でルールを守って活発に行動でき、節度をもっている。

 2年前に京大の11月祭を訪れた際、大学構内に溢れる自由闊達な空気感と最低限にまで圧縮された秩序の上に、全力で楽しむ「本物の学生」たちの姿を見て、憧れました。部展も高いクオリティでした。しかし、ふと足元を見ればゴミに溢れ、カラスがゴミをついばんでいた。模擬店のテントは汚く、飲酒によって悪ノリするような輩も少なくなく、嫌な一面も目にしました。

本学の学生は構内にゴミは捨てません。それはゴミ箱が整備されていることもありますが、結構な頻度で目につくゴミはひろうような学生がいるんです。

 あまりに整然として、殻を破れない私立大学と殻を破れるが故の帝大の汚濁。それぞれに良さがありますが、やはり私はうちの大学が好きなんだと思います。ショボいところ、どこか頭足らずで質が伴わぬ勢いだけの大学生たちの集まり、なのに、なんでも出来る。そこに大学としてのプライドを感じています。アホなりに、やれる。阿保の京産。これがうちのアイデンティティでしょう。

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  山奥で学ぶ学生たちの祭典、神山祭ぜひお越しください。

 

 

縄文の頃へ

 

 29日、京都大学総合博物館において、特別展「火焔型土器と西の縄文」を観覧しました。燃えさかる炎のような意匠で、見るものに強烈な印象を残す火焔型土器。いわゆる「縄文土器」の一類型とされますが、一般にみられる縄を擦り付けたような文様ではなく、粘土によって立体的に造形された文様が特徴です。地域性を感じさせますね。

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 出土地域はほぼ現在の新潟県。このため京大博と新潟県立歴史博物館、信濃川火焔街道連携協議会が主催者に名を連ねています。アンケート調査でも「展示を見て、新潟県に行きたいと思うようになりましたか?」との問いもあり、考古学を地元の魅力にアピールするような「観光」も念頭に置いた展覧会であることが読み取れます。確かに京都は全国各地、ひいては世界からも人が来る場所ですから、情報発信への効果が期待できますね。当日も外国人の方が土器を見て唸っておられましたし。

 このように火焔型土器は主に現在の新潟県を中心に発見されています。一方、「西の縄文」では、京大が1世紀をかけて積み重ねた西日本における出土品が紹介されています。ただし、ほとんどがバラバラに砕けていて、新潟のモノと比べると地味なものは多いです。やはり縄文時代は東日本における文化のほうが盛んだったのかもしれませんね。

 文化と書きましたが、東日本の縄文土器は極めて特徴的でした。火焔型一つとっても立体的で見る者を引き付けて離さないような芸術性を感じさせる代物ばかりです。案内文によると意匠を施すこと自体、実用性には寄与しなかったとみられるそうで、むしろ逆効果だったとか。しかし、それらには縄文人が実用性を捨てても表現したかった何らかの「心」が現れていると考えられているそうな。かの岡本太郎が唸った気持ちがわからんでもなかったですね。

 出口を抜けるとすぐにアンケート調査コーナーがありました。今回はアンケートに答えると先着で「展示会目録」が無料で配布されています。展示品についての詳しい説明もあるので、ぜひ手に入れましょう。

 そのほか常設展なども見学。こちらは、撮影禁止です。あ、そうだ、特別展は主催者側のご厚意で撮影許可が出ているそうで、何枚も写真を撮らせてもらいました。フラッシュは炊かないようにとのことですので、ご注意ください。

 祖先の培った古き文化に思いを馳せることのできる素晴らしい展覧会でした。

 

 展覧会終了後は新設された「京都市総合資料館歴彩館」に立ち寄りました。歴史に彩られた素晴らしい資料館であり、図書館でもある研究拠点です。

歴史好きにはたまらない施設ですね。

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麦屋踊

 三連休の1日目。南砺市旧城端地域で「むぎや祭り」が開催されました。

 城端といえば、城端別院善徳寺の門前町として栄え、古くからの伝統を感じさせる情緒ある街並みで知られています。昨年には「曳山」がユネスコ無形文化遺産に登録され、県内外からの観光客でにぎわっています。この曳山と並ぶ伝統行事として「むぎや祭り」が行われています。「春の曳山、秋のむぎや。」城端の季節を彩るお祭りの一つが、今回のむぎや踊りなのです。伝統的な衣装に身を包んだ男女が舞を披露します。

 踊りといえば、富山県は「おわら風の盆」が有名です。

 おわらは、県東部の旧八尾町で開催されるお祭りです。年間来場者数は約10万人。県内外からの観光客で有名なお祭りです。一方むぎやは県西部のおまつりです。

 むぎやとおわらの違い。最も大きな違いは、踊り手の姿ではないでしょうか。おわらでは、庶民といいますか、百姓の男女が帽子で顔を隠して、農作業を表した踊りを踊っています。たいして、麦屋の場合には男女ともに顔を隠さず、男性は帯刀した袴姿で踊り、女性は色鮮やかな着物でたおやかに踊っています。

 実は麦屋節は、戦乱を逃れ山奥に移り住んだ落人たちの音色といわれています。南砺市利賀地区には世界遺産五箇山集落があります。かの地には「平家の落人」の伝説があり、源氏に敗れた平家の侍が、人里離れた山奥に築いたのが現在の合掌集落だったのです。慣れない農作業と養蚕に勤しむ暮らしの中で、都を偲んで踊ったのが「むぎや踊り」とされ、今に伝わっています。すなわち、落ち延びれども武家の踊りなのです。

 そういわれてみると、どこか気品のある踊りであるとも感じられます。数百年前に都を追われた人々が、遠くの山の先にあるであろう都を偲んだむぎや踊り。たいして越中の百姓が、日々の暮らしを踊りに現し洗練させたおわら踊り。

 それぞれの地域に残る舞踊や民謡は、まさに遠き先祖たちの記憶を引きつぐ伝統行事なのですね。

 なお、おわら節は近代、おおむね大正時代ごろに新進気鋭の民謡作家らの協力で今に伝わる音色に生まれ変わったといわれています。大正期の銀座の百貨店などでも、おわらは披露され、一躍全国区の舞踊として知られるようになりました。(『歴史と観光』)

 むぎや踊りも有名ではありますが、おわらの後塵を拝する面は否めません…。

どちらもよいお祭り。むしろ、混雑の面では麦屋のほうが落ち着いて見られる点で軍配が上がっていると思います。近年では、伝統的な町内踊りに加え、県内外の団体の参加を募った「よさこい」も併催されており、盛り上がりを見せています。ミュージカル調の団体もあって、結構楽しんでみることができました。若者参加で楽しめる祭りが「むぎや祭り」ではないでしょうか。

 2012年には、PAworksが制作したアニメ「True tears」の舞台にもなり、「むぎは踊り」としても登場しています。インドアのアニメ好きの方々も、足を運んでいます。

 9月、おわらの後はむぎや。ぜひとも城端線を活用し、秋の涼しい城端で独特の情緒を感じてみてください。

 

利賀大橋について

利賀大橋。

 この橋の名を聞いて、反応できる人間はよほどの「廃道マニア」か、あるいは地元住民ではないだろうか。私などは高校時代に、よっきれん氏の「山さいがねが」というHPでレポートを読んだことでハマってしまった。あのレポートの完成度は素晴らしいものがある。実際の探索と後日の忠実な研究。まさしく、見習いたいものである。

 それはさておいて、これほど「歴史」に対する好奇心を今の我々に抱かせる橋はないだろう。小牧ダムから上流に1㎞ほど行ったところ、国道156号線を岐阜方向にむかうと左側に、古びた橋脚の跡が見えてくる。対岸の橋脚はアーチ状の橋を併設しており、吊り橋部分を失った橋脚は「哀愁」とか、とにかく心に「ぐっとくる」。

 グッとくると同時に、「なぜ?」という疑問がわいてくる。「この古びた橋脚は何故ここにあるのだろうか。」「いつからあるのだろうか」、「どうして今は渡れないのか」

 大学時代の恩師の言葉に「歴史とは、過去に問を発したときに生まれる」いや、「過去に問を発したと同時に、人は誰もが歴史家となる」という言葉だったか。これほどこの言葉通りの状況に陥らせる橋はないだろう。これこそが多くの人を虜にする理由かもしれない。そして、私もまだ「虜」の一人だ。

 30日に、地元・自治体の図書館を尋ねた。

ここは県内の総合的な公文書館も併設した図書館であり、素人目にも自治体や郷土資料に関しては充実している印象があった。とりあえず郷土資料のうち「利賀」「庄川」「橋梁」「土木」等を念頭に置いて探索した。基礎資料としての『利賀村史』を紐解き、利賀大橋に関する事実関係を確認。ついでに隣に置かれていた利賀村の関係者による随想録を確認すれば、利賀大橋の画像が掲載されているではないか。

 そこには大橋を渡過した際の感覚も記されていた。記述によると「怖い」との記述があり、自動車での渡過は可能であったものの、渡るものに恐怖を抱かせる様態であったという。現場を実際に歩いた人の記録は文書としては少ない。貴重な発見の一つであった。さらに驚かされたのは、写真には対岸に小屋らしき「建屋」が確認できたことだろう。他の資料に記載されていた「バス停」なるものである可能性があるけれども、あの吊り橋をバスで渡っていたという事実にはにわかに信じられないものがあろう。

 とりあえず、

・新しい橋の画像(国道156下流方向から対岸のアーチ橋主塔部分を捉えたもの)

・橋の画像には何らかの建屋らしきもの

・実際に渡過した郷土の方の証言

などが新事実であった。

また、従来より判明していたものの、今回の探索で非常に鍵を握った事実関係として、

・昭和20年に雪崩により落橋

・昭和21年11月17日復旧

・昭和22年2月21日再び雪崩による落橋

・昭和23年10月20日復旧

以上の事実関係を確認。

 閲覧室で確認できる内容は以上が限界であった。

 続いて、新聞雑誌閲覧室へ移動し、明治から現在までの新聞(地方紙)の記録を確認した。過去の記録についてはほとんどがPDFとされ、1976年以降の資料はキーワード検索が可能であった。

 76年といえば昭和51年。よっきれん氏のレポートによると、昭和50年代に橋は火災により通行不能に陥ったとされている。よって、火災などの記事が発見される可能性はあったため、すぐさま「利賀大橋」と打ち込んだ。

 20件近くヒットしたものからいくつか重要なものを確認した。

そして…。ついに…。

北日本新聞(昭和54年(1979年)12月11日 火曜日)13面

「名所・名物ここにも<6>利賀大橋 庄川観光のシンボル 老朽化で無用の長物に」

以上の記事を発見した。

 

 庄川の小牧ダムから約1㌔上流の湖面をまたぐつり橋「利賀大橋」はポスターなどで庄川観光のシンボル扱いとなっているが、本当は橋板がすっかり落ちて通行できない無用の長物-といったら観光客をがっかりさせるだろうかー。

 このつり橋は庄川峡をはさんで国道156号と利賀村の仙野原をつなぐもので延長百三十㍍、幅員三㍍。昭和一二年に架設され、戦後の二十三年に雪崩で落ちたが、すぐ架け替えられた。しかし仙野原の集落が過疎化で消え、利用者が少なくなったこと、老朽化が進み補修に手が回らないうえ、吊り橋が風に揺れる際に摩さつが原因で再三火災が発生。橋板が次々焼け落ちたことなどから四十五に通行止めとなった。

 その後、風雪に耐えきれなくなった橋板が垂れさがり、この下を通る庄川観光の遊覧船から「万一事故があっては」と苦情が出たりした。このため利賀村は一昨年、危険な橋板だけを取り除いたが、両岸を結ぶワイヤロープなどはそのまま残した。

 橋の架かる地点は庄川と利賀川の合流点で湖面が広く、遊覧船と山峡美が最も映える場所。村ではワイヤロープなどを撤去しなかったことについて「橋として使用できないが、庄川峡観光にも一役買っているとの感じもあるので当分はこのままで・・・」と語っている。

 静かな湖面を滑るように走る白い遊覧船につり橋の風情をプラスした渓谷美は一幅の絵を見るようで、秘境ムードをかきたてる。そのためか、庄川観光をPRするためのパンフレットやポスター、印刷物の表紙などには必ずと言っていいほどこのつり橋が登場。観光客に「あのつり橋を渡ってみたい」といった気持ちを起こさせているが、その半面、過疎の村を離れた人たちから「過疎の残がいをみるようで心苦しい」との声も出て、残すか、撤去するか、吊り橋は両論のなかで揺れ動いている。

 …。と。まあ結論は「撤去」だったんですね。

 郷土誌として有名な新聞社で、私も今年度就職試験に応募して見事落選してしまった((笑)記者職は無謀であったろうか。まあ、文章センスがなかったんでしょう。

 以上の引用記事から、これまで不明だった詳細が鮮明になった。

 まず、よっきれん氏の記事のラスト。「火災による通行不能」はほぼ正解であったが、火災発生の原因が、吊り橋が風に揺れることから起きる摩擦による自然発火であったことが浮き彫りになった。しかも、繰り返し橋板の各所が燃えていたことになろう。

 よっき氏の探索でも、主塔付近には激しい風が吹いていることがわかっている。ましてや吊り橋部分の風は湖面上であり、さらに強い風を受けていたことであろう。

 さらに通行禁止となった年が「昭和45年(1970年)」であることが判明した。これまでは50年代との説が通説であったが、少々遡った。橋板撤去の時期についても、昭和52年(1977年)であることがほぼ確定。ワイヤロープに関しては、平成に入ってから撤去されたことが村史より明らかとなっており、それまで旧状を偲ばせるものとしてその役割を発揮していたものが、撤去の方針に傾いたものと推定される。

 今後は、平成年間の橋の撤去について、時期と事情等が明らかになれば、橋を巡る詳細がほぼ判明するだろう。

 それにしても、この橋…。どんな姿になっても強烈なインパクトを我々に与える。

 

 利賀村の住民にとって、近代とは「陸の孤島」からの飛躍を死活の命題として闘った時代であったと、村史は伝えている。小牧ダムの整備により新たな橋を要した村は幾度とない落橋にも負けず、陳情と交渉を続けた。そこには村の人々の熱意と情熱があり、この橋はまさに村の歴史を体現する象徴であった。ところが「現代」に入り、村を襲ったのは過疎化の進展であった。あの日橋を勝ち取った住民の姿は一人、また一人と去っていく。去っていったものたちに朽ちる橋はどのように映ったか。新聞記事は「過疎の象徴」との声を拾っている。

 人はいつまでも「そこにあるもの」に対して意味づけを辞めない。あらゆるものは新鮮さを帯び、やがて朽ちていく。先刻まさに建設を終えた北陸新幹線、新港大橋も時代の荒波に飲まれ、やがては、新しい意味を帯びていくことだろう。その意味ができれば華やかなものであってほしいけれど、それはわからない。

 吊り橋を失い、両岸を結ぶ機能を失った利賀大橋は今もなお、人を引き付けてやまない。見るものに意味を考えさせ、やがて、意味を見出させる。あの橋が結んでいるのは、今を生きる人々と過去に生きていた人々の間の懸隔かもしれない。

おしまい。