庄川遊覧船 晩秋の庄川峡

11月も下旬になると、空気はひんやりとして、

いわゆる「晩秋」の気配がしてくる。

しかし、今年はどうやら穏やかな晩秋のようで、暖かい日が続いた。

 

勤労感謝の日を含む三連休。

遠くに行きたいと思いながらも、感染症は再び猛威を振るいつつある。

もちろん、関心を持ち始めればきりはないが、今回は近場を行くことにした。

 

国道156号線五箇山方面に進むとすぐに、庄川遊覧船の乗り場が見えてくる。

昭和にできた小牧ダムが生み出したダム湖を行く遊覧船に乗ってみた。

本来は上流の大牧温泉とを結ぶ航路なのであるが、大牧温泉は事前に予約しなければ宿泊はおろか、日帰り温泉もできない。また、本当に旅館と温泉のみしかないのでそれを目的とするときにのみ、使いたい航路である。

今日は長崎大橋前でUターンする「長崎大橋遊覧コース」に乗り込んだ。運賃は1000円と、とてもリーズナブルな価格で庄川峡の遊覧を楽しめる。

暖かい日であったが、湖畔に出ると風を感じた。

吹きすさぶ風は下流から、上流にかけて吹いていた。

このところ暖かい日が続いていたとはいえ、湖畔の木々は既に8割がた落葉して、散り初めといった景観であった。晩秋。枝木は白っぽく、冬の訪れを待っているかのようである。湖を行く、遊覧船の前に、古の廃橋が顔をのぞかせた。

また会いました。

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利賀大橋

 

旧利賀大橋。初めて見る角度から、主塔に至るアーチ橋が美しい。ここだけは紅葉も健在で、紅葉をまとって秋らしい優美な姿を現していた。

かつてはこの遊覧船の上に、吊り橋部がかかっていたという。

素晴らしい。

橋を眺めて、しばらくすると、上流に長崎大橋と利賀大橋(新)がみえてきた。

現役の橋を眺め、現代の技術の脅威を感じた。戦前の橋とはスケールが違う。長崎大橋の足下にも、旧橋の跡が見えた。橋は年々更新されているのだ。

15分ほどで遊覧船乗り場に戻った。

貴重な体験。とても楽しかった。

またこの橋とは何度か出会うことになるだろう。

 

 

隠れた名湯・湯谷温泉(ゆだにおんせん)富山県砺波市

湯谷温泉(富山県砺波市-旧庄川町)

「ノスタルジックな旧温泉旅館」

「砲身から噴き出る源泉、水没する湯殿」

「惚れ惚れする立派な砲身(湯口)」

「衝撃的な温泉施設」

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湯谷温泉(ゆだにおんせん)」は庄川の上流、小牧ダムの足下に位置する温泉です。古くは温泉旅館だったよううですが、旅館は廃業し、現在は日帰りの温泉施設として稼働しています。

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ダムから見える謎の家屋として注目していたところ、どうやら温泉施設であると知ったのは大学時代のこと。

旧利賀大橋への好奇心から、ドライブがてら周辺に足を運ぶことは多かったが、なかなか勇気が出ませんでした。

意を決して、足を踏み入れた際のレポートをお届けします。おそらく温泉好きや昭和の時代的雰囲気が好みの方にはたまらないスポットであることは間違いないと思います。

□目印はバス停!

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湯谷温泉」と書かれたバス停があります。ここに書かれている案内を頼りに、向かって左手の脇道を下っていきます。結構傾斜もあって、旅館としての現役時代には大変だったんじゃないかなと感じます。

道すがら「湯谷亭」と書かれた看板がありました。電気がついていて、覗いてみると、内装から何まで昭和年間の香り。今日はトリップしてきた時間旅行者の気分で下り坂を降りた。

□寂れた古き良き日本旅館の趣

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玄関で500円硬貨を置いて、入館。

私の前に先客が2名。3枚の硬貨が無造作に並べられています。

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手描きの案内文を頼りに湯殿を目指す。

長い廊下は薄暗く、独特の雰囲気が漂う。廃墟のようではあるが、しかし、掃除は行き届いていて、床面には外光の緑の明かりが映り込んでいました。

廊下の執着駅からは巨大なコンクリートの壁「小牧ダム」を望むことができる。不思議な景観ですよね

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簡易な脱衣所はしかし、1920年代の趣が漂う。男女を分け隔てる案内表示から年代を感じますね。

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□トーチカのような湯殿!砲身から噴出する源泉!

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湯殿に降りると思わず息を呑んだ。

砲身状の噴出口から蕩々と湧き出る源泉の音。

ほのかに香る心地よい硫黄臭が正真正銘の温泉であることを訪問者に知らせている。

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そして、緑色に苔むしたコンクリートの壁と青い水面を讃える湯船。いや、よくみると湯船しかない。湯殿全体が温泉に沈んでいる不思議な光景が目の前に繰り広げられていました。

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かつて、古書店で拾った芸術新潮のバックナンバーにこんな温泉の美学が語られていた。まさにその時見た温泉のような感じである。

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しかし、これはそれどころではないぞ...!?

なんだこれは!?

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大砲のような湯口から蕩々と噴き出るお湯に度肝を抜かれちまった。しかもこれは可動式と来たからまいった!

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いきりたった砲身は男性側、女性側どちらにも湯の噴出口を向けることができる。水面から顔を覗かせる噴出口と噴出する源泉をみると、景気がいい

男性は思わず羨ましく思えてしまう

こういう遊び心いいですよね。

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砲身を水面下に沈めてみた。湯殿全体が静けさに包まれる。湯温はそれほど高くないので、身体はじっくりと温もりに包まれるのだ。足を伸ばして天井を眺めた。

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大正13年から数えること90年近く、このコンクリートの湯殿は存在し続けていることになるのだろうか。緑色の屋根が年期を感じさせます。差し込む光の当たり具合もまたなんとも神妙な心地にさせてくれます。

40分ほど、湯殿にいたろうか。

湯温が高くないからか、あまりあったまった気がしないなあと脱衣所に登った時、汗が吹き出してきました。そして、少しくらりと。湯温が低くて油断しがちですが、湯当たり注意ですね。茹でガエルの法則みたいな。

身体の芯からあったまれるよい温泉でした。

湯上りに廊下で幼い子どもを連れた常連と思しき老婆とすれ違いました。軽く挨拶すると、良い湯だったでしょう!と言われ、ええいい湯でしたよ。とっさに口から出た言葉ですが、全くその通りでした。おばあちゃんに連れられた幼い子どもにとっては幼心に強烈な印象に残りそうですね。なんとか続いて欲しいもんですね。

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しばらく休憩。

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廊下には何故か麦酒しかない自販機と壊れたマッサージチェア。持参した水を飲みながら、暫し休憩。廊下のひんやりとした空気感が心地よい。

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猫。この子は入るときに出迎えてくれました。

かわいい

建物を後にすると、道でエプロンの女性と遭遇。

「お湯をくんでかれましたか?」

聞けば、温泉の関係者らしい。どうやらあの温泉、飲用に適した湯らしい。ペットボトルに入れて持ち帰ると、美味しく飲めるらしい。

「また機会がありましたら、入られたときにでも」

楽しみである。ところで、周辺には湯谷亭や大松など、仕出し料理の店がありました。湯谷亭などは、電気も付いて営業している様子です。

「旅館はすでにやってないけど、食べるところはなんとか続いています、まあ続くかはわからんけど」

湯谷亭。今度ぜひ行ってみたいと思います。

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旅館は寂れて久しいけれど、お湯は蕩々と沸き続けています。いつまでも。この場所で。

無くなって欲しくない場所がまた一つ増えました。

ぜひまた訪れようと思います。

縄文の頃へ

 

 29日、京都大学総合博物館において、特別展「火焔型土器と西の縄文」を観覧しました。燃えさかる炎のような意匠で、見るものに強烈な印象を残す火焔型土器。いわゆる「縄文土器」の一類型とされますが、一般にみられる縄を擦り付けたような文様ではなく、粘土によって立体的に造形された文様が特徴です。地域性を感じさせますね。

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 出土地域はほぼ現在の新潟県。このため京大博と新潟県立歴史博物館、信濃川火焔街道連携協議会が主催者に名を連ねています。アンケート調査でも「展示を見て、新潟県に行きたいと思うようになりましたか?」との問いもあり、考古学を地元の魅力にアピールするような「観光」も念頭に置いた展覧会であることが読み取れます。確かに京都は全国各地、ひいては世界からも人が来る場所ですから、情報発信への効果が期待できますね。当日も外国人の方が土器を見て唸っておられましたし。

 このように火焔型土器は主に現在の新潟県を中心に発見されています。一方、「西の縄文」では、京大が1世紀をかけて積み重ねた西日本における出土品が紹介されています。ただし、ほとんどがバラバラに砕けていて、新潟のモノと比べると地味なものは多いです。やはり縄文時代は東日本における文化のほうが盛んだったのかもしれませんね。

 文化と書きましたが、東日本の縄文土器は極めて特徴的でした。火焔型一つとっても立体的で見る者を引き付けて離さないような芸術性を感じさせる代物ばかりです。案内文によると意匠を施すこと自体、実用性には寄与しなかったとみられるそうで、むしろ逆効果だったとか。しかし、それらには縄文人が実用性を捨てても表現したかった何らかの「心」が現れていると考えられているそうな。かの岡本太郎が唸った気持ちがわからんでもなかったですね。

 出口を抜けるとすぐにアンケート調査コーナーがありました。今回はアンケートに答えると先着で「展示会目録」が無料で配布されています。展示品についての詳しい説明もあるので、ぜひ手に入れましょう。

 そのほか常設展なども見学。こちらは、撮影禁止です。あ、そうだ、特別展は主催者側のご厚意で撮影許可が出ているそうで、何枚も写真を撮らせてもらいました。フラッシュは炊かないようにとのことですので、ご注意ください。

 祖先の培った古き文化に思いを馳せることのできる素晴らしい展覧会でした。

 

 展覧会終了後は新設された「京都市総合資料館歴彩館」に立ち寄りました。歴史に彩られた素晴らしい資料館であり、図書館でもある研究拠点です。

歴史好きにはたまらない施設ですね。

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利賀大橋について

利賀大橋。

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 この橋の名を聞いて、反応できる人間はよほどの「廃道マニア」か、あるいは地元住民ではないだろうか。私などは高校時代に、よっきれん氏の「山さいがねが」というHPでレポートを読んだことでハマってしまった。あのレポートの完成度は素晴らしいものがある。実際の探索と後日の忠実な研究。まさしく、見習いたいものである。

 これほど「歴史」に対する好奇心を今の我々に抱かせる橋はないだろう。小牧ダムから上流に1㎞ほど行ったところ、国道156号線を岐阜方向にむかうと左側に、古びた橋脚の跡が見えてくる。対岸の橋脚はアーチ状の橋を併設しており、吊り橋部分を失った橋脚は「哀愁」とか、とにかく心に「ぐっとくる」。

 グッとくると同時に、「なぜ?」という疑問がわいてくる。「この古びた橋脚は何故ここにあるのだろうか。」「いつからあるのだろうか」、「どうして今は渡れないのか」

 県立図書館を尋ねた。

ここは公文書館も併設した図書館であり、素人目に見ても郷土資料に関しては充実している印象があった。とりあえず郷土資料のうち「利賀」「庄川」「橋梁」「土木」等を念頭に置いて探索した。 まず、基礎資料としての『利賀村史』を紐解き、利賀大橋に関する事実関係を確認。ついで隣に置かれていた利賀村の関係者による随想録を確認すれば、利賀大橋の画像が掲載されているではないか。

 そこには大橋を渡過した際の感覚も記されていた。記述によると「怖い」との記述があり、自動車での渡過は可能であったものの、渡る際に恐怖を感じたとある。現場を実際に歩いた人の記録は文書としては少ない。貴重な発見の一つであった。さらに驚かされたのは、写真には対岸に小屋らしき「建屋」が確認できたことだろう。他の資料に記載されていた「バス停」なるものである可能性があるけれども、あの吊り橋をバスで渡っていたという事実にはにわかに信じられないものがあろう。

 とりあえず、

・新しい橋の画像(国道156下流方向から対岸のアーチ橋主塔部分を捉えたもの)

・橋の画像には何らかの建屋らしきもの

・実際に渡過した郷土の方の証言

などが収穫であった。

また、従来より判明していたものの、今回の探索で明かになった事実関係として、

・昭和20年、雪崩により落橋

・昭和21年11月17日復旧

・昭和22年2月21日再び雪崩による落橋

・昭和23年10月20日復旧

以上の事実関係を確認。

 確認できる内容は以上が限界であった。

 続いて、新聞雑誌閲覧室へ移動し、明治から現在までの新聞(地方紙)の記録を確認した。過去の記録についてはほとんどがPDFとされ、1976年以降の資料はキーワード検索が可能であった。

 76年といえば昭和51年。よっきれん氏のレポートによると「昭和50年代に橋は火災により通行不能に陥った」とされている。よって、火災などの記事が発見される可能性はあったため、すぐさま「利賀大橋」と打ち込んだ。

 20件近くヒットしたものからいくつか重要なものを確認した。

そして…。ついに…。

北日本新聞(昭和54年(1979年)12月11日 火曜日)13面

「名所・名物ここにも<6>利賀大橋 庄川観光のシンボル 老朽化で無用の長物に」

以上の記事を発見した。

 

 庄川の小牧ダムから約1㌔上流の湖面をまたぐつり橋「利賀大橋」はポスターなどで庄川観光のシンボル扱いとなっているが、本当は橋板がすっかり落ちて通行できない無用の長物-といったら観光客をがっかりさせるだろうかー。

 このつり橋は庄川峡をはさんで国道156号と利賀村の仙野原をつなぐもので延長百三十㍍、幅員三㍍。昭和一二年に架設され、戦後の二十三年に雪崩で落ちたが、すぐ架け替えられた。しかし仙野原の集落が過疎化で消え、利用者が少なくなったこと、老朽化が進み補修に手が回らないうえ、吊り橋が風に揺れる際に摩さつが原因で再三火災が発生。橋板が次々焼け落ちたことなどから四十五に通行止めとなった。

 その後、風雪に耐えきれなくなった橋板が垂れさがり、この下を通る庄川観光の遊覧船から「万一事故があっては」と苦情が出たりした。このため利賀村は一昨年、危険な橋板だけを取り除いたが、両岸を結ぶワイヤロープなどはそのまま残した。

 橋の架かる地点は庄川と利賀川の合流点で湖面が広く、遊覧船と山峡美が最も映える場所。村ではワイヤロープなどを撤去しなかったことについて「橋として使用できないが、庄川峡観光にも一役買っているとの感じもあるので当分はこのままで・・・」と語っている。

 静かな湖面を滑るように走る白い遊覧船につり橋の風情をプラスした渓谷美は一幅の絵を見るようで、秘境ムードをかきたてる。そのためか、庄川観光をPRするためのパンフレットやポスター、印刷物の表紙などには必ずと言っていいほどこのつり橋が登場。観光客に「あのつり橋を渡ってみたい」といった気持ちを起こさせているが、その半面、過疎の村を離れた人たちから「過疎の残がいをみるようで心苦しい」との声も出て、残すか、撤去するか、吊り橋は両論のなかで揺れ動いている。

 以上の引用記事から、廃止に至る経緯が鮮明になった。

 まず、よっきれん氏の記事のラスト。「火災による通行不能」が裏付けられた。さらに火災発生の原因が、吊り橋が風に揺れることから起きる摩擦による自然発火であったとする衝撃の事実も明らかになった。

 よっき氏の探索でも、主塔付近には激しい風が吹いていることがわかっている。ましてや吊り橋部分は湖面上であり、さらに強い風を受けていたことであろう。

 また通行禁止となった年が「昭和45年(1970年)」であることが判明した。これまでは昭和50年代が通説であったが、少々遡った。橋板撤去の時期についても、昭和52年(1977年)であることがほぼ確定。ワイヤロープに関しては、平成に入ってから撤去されたことが村史より明らかとなっており、それまで旧状を偲ばせるものとしてその役割を発揮していたものが、撤去の方針に傾いたものと推定される。

 今後は、平成年間の橋の撤去について、時期と事情等が明らかになれば、橋を巡る詳細がほぼ判明するだろう。

 それにしても、この橋…。どんな姿になっても強烈なインパクトを我々に与える。

 

 利賀村の住民にとっての利賀大橋がどのような位置付けだったろうか。よっきれん氏のレポートによれば小牧ダムの整備により新たな橋を要した村は幾度とない落橋にも負けず、陳情と交渉を続けた。そこには村の人々の熱意と情熱があり、この橋はまさに村の歴史を体現する象徴であった。ところが「現代」に入り、村を襲ったのは過疎化の進展であった。あの日橋を勝ち取った住民の姿は一人、また一人と去っていく。去っていったものたちに朽ちる橋はどのように映ったか。新聞記事は「過疎の象徴」との声を拾っている。

おしまい。

電鉄魚津駅前-かつての中心市街地を歩く

富山地方鉄道・電鉄魚津駅

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電鉄富山駅から宇奈月温泉行きの普通列車で約40分。降り立ったホームは高架式で周囲のどの建物よりも高く感じられる。

駅舎はこじんまりとしているが、まだ新しい。階段を降りると、寂しい駅前が広がっていた。

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電鉄魚津駅にはかつて、4階建てのデパートを併設する近代的な駅ビルが建っていた。1967年に完成した「電鉄魚津駅ステーションデパート」には喫茶店や服飾店も揃い、魚津の中心市街地の象徴であったようだ。

開業の約10年前には「魚津大火(1956年)」が発生しており、地元にとっては復興の起爆剤としての役割も期待されたのかもしれない。

しかし、高度経済成長期、モータリゼーションの進展や郊外商業店舗の開業により、徐々に寂れ、1998年には閉店。

以後、商店は閉鎖され、高架ホームと地上との接続の為、純粋に駅舎としての活用が図られてきた。それも2013年までで、ついに解体。現在の駅舎となったようだ。

賑わいの中心は現在の魚津駅に移った。

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旧市街との呼び声も高い電鉄魚津駅周辺は、魚津城跡や埋没林博物館もある。寂れた街並みを求める人には楽しいかも知れない。

座商店街

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新宿商店街脇の盛り場跡。

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 既に廃墟と化しており、不法侵入を厳禁とする看板が注意喚起をしていた。建物自体は、在りし日の繁栄を伺わせるに十分すぎる趣がある。

 

魚津埋没林博物館。

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魚津には、埋没林と呼ばれる天然記念物がある。太古の昔、沿岸まで存在していた杉の原生林が海の底に沈んでしまった。1930年代に、魚津港開港工事で発掘が行われ、天然記念物として保護された。戦後には地方博覧会のサテライト会場となり、現在の博物館施設が設けられたそうだ。

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水中保存は独特の存在感がある。

何時間も眺めたいものでもないし、特別みたいものでもない。まあ、見て悪いと言うものでもない。

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魚津の海。

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久しぶりに海を眺めた。少し曇り気味であるがいい海岸線だと思った。f:id:heisei29:20170704121232j:image

道の駅も整備。

観光地料金であるが、新鮮な生牡蠣なども味わえる。

魚津駅前のバス乗り場

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魚津市では市内主要箇所を結ぶバス路線が運行されている。大人200円(一律)

マスコットキャラが可愛い。

 

建築もおしゃれな「ありそドーム」

日本最古の「魚津水族館

こじんまりかわい「ミラージュランド

などなど....を結ぶ。

 

魚津駅前は、ホテルや歓楽街など、それなりに発展している。中心市街地、旧市街、漁港、それぞれに味わい深いまちでした!