利賀大橋について

利賀大橋。

 この橋の名を聞いて、反応できる人間はよほどの「廃道マニア」か、あるいは地元住民ではないだろうか。私などは高校時代に、よっきれん氏の「山さいがねが」というHPでレポートを読んだことでハマってしまった。あのレポートの完成度は素晴らしいものがある。実際の探索と後日の忠実な研究。まさしく、見習いたいものである。

 それはさておいて、これほど「歴史」に対する好奇心を今の我々に抱かせる橋はないだろう。小牧ダムから上流に1㎞ほど行ったところ、国道156号線を岐阜方向にむかうと左側に、古びた橋脚の跡が見えてくる。対岸の橋脚はアーチ状の橋を併設しており、吊り橋部分を失った橋脚は「哀愁」とか、とにかく心に「ぐっとくる」。

 グッとくると同時に、「なぜ?」という疑問がわいてくる。「この古びた橋脚は何故ここにあるのだろうか。」「いつからあるのだろうか」、「どうして今は渡れないのか」

 大学時代の恩師の言葉に「歴史とは、過去に問を発したときに生まれる」いや、「過去に問を発したと同時に、人は誰もが歴史家となる」という言葉だったか。これほどこの言葉通りの状況に陥らせる橋はないだろう。これこそが多くの人を虜にする理由かもしれない。そして、私もまだ「虜」の一人だ。

 30日に、地元・自治体の図書館を尋ねた。

ここは県内の総合的な公文書館も併設した図書館であり、素人目にも自治体や郷土資料に関しては充実している印象があった。とりあえず郷土資料のうち「利賀」「庄川」「橋梁」「土木」等を念頭に置いて探索した。基礎資料としての『利賀村史』を紐解き、利賀大橋に関する事実関係を確認。ついでに隣に置かれていた利賀村の関係者による随想録を確認すれば、利賀大橋の画像が掲載されているではないか。

 そこには大橋を渡過した際の感覚も記されていた。記述によると「怖い」との記述があり、自動車での渡過は可能であったものの、渡るものに恐怖を抱かせる様態であったという。現場を実際に歩いた人の記録は文書としては少ない。貴重な発見の一つであった。さらに驚かされたのは、写真には対岸に小屋らしき「建屋」が確認できたことだろう。他の資料に記載されていた「バス停」なるものである可能性があるけれども、あの吊り橋をバスで渡っていたという事実にはにわかに信じられないものがあろう。

 とりあえず、

・新しい橋の画像(国道156下流方向から対岸のアーチ橋主塔部分を捉えたもの)

・橋の画像には何らかの建屋らしきもの

・実際に渡過した郷土の方の証言

などが新事実であった。

また、従来より判明していたものの、今回の探索で非常に鍵を握った事実関係として、

・昭和20年に雪崩により落橋

・昭和21年11月17日復旧

・昭和22年2月21日再び雪崩による落橋

・昭和23年10月20日復旧

以上の事実関係を確認。

 閲覧室で確認できる内容は以上が限界であった。

 続いて、新聞雑誌閲覧室へ移動し、明治から現在までの新聞(地方紙)の記録を確認した。過去の記録についてはほとんどがPDFとされ、1976年以降の資料はキーワード検索が可能であった。

 76年といえば昭和51年。よっきれん氏のレポートによると、昭和50年代に橋は火災により通行不能に陥ったとされている。よって、火災などの記事が発見される可能性はあったため、すぐさま「利賀大橋」と打ち込んだ。

 20件近くヒットしたものからいくつか重要なものを確認した。

そして…。ついに…。

北日本新聞(昭和54年(1979年)12月11日 火曜日)13面

「名所・名物ここにも<6>利賀大橋 庄川観光のシンボル 老朽化で無用の長物に」

以上の記事を発見した。

 

 庄川の小牧ダムから約1㌔上流の湖面をまたぐつり橋「利賀大橋」はポスターなどで庄川観光のシンボル扱いとなっているが、本当は橋板がすっかり落ちて通行できない無用の長物-といったら観光客をがっかりさせるだろうかー。

 このつり橋は庄川峡をはさんで国道156号と利賀村の仙野原をつなぐもので延長百三十㍍、幅員三㍍。昭和一二年に架設され、戦後の二十三年に雪崩で落ちたが、すぐ架け替えられた。しかし仙野原の集落が過疎化で消え、利用者が少なくなったこと、老朽化が進み補修に手が回らないうえ、吊り橋が風に揺れる際に摩さつが原因で再三火災が発生。橋板が次々焼け落ちたことなどから四十五に通行止めとなった。

 その後、風雪に耐えきれなくなった橋板が垂れさがり、この下を通る庄川観光の遊覧船から「万一事故があっては」と苦情が出たりした。このため利賀村は一昨年、危険な橋板だけを取り除いたが、両岸を結ぶワイヤロープなどはそのまま残した。

 橋の架かる地点は庄川と利賀川の合流点で湖面が広く、遊覧船と山峡美が最も映える場所。村ではワイヤロープなどを撤去しなかったことについて「橋として使用できないが、庄川峡観光にも一役買っているとの感じもあるので当分はこのままで・・・」と語っている。

 静かな湖面を滑るように走る白い遊覧船につり橋の風情をプラスした渓谷美は一幅の絵を見るようで、秘境ムードをかきたてる。そのためか、庄川観光をPRするためのパンフレットやポスター、印刷物の表紙などには必ずと言っていいほどこのつり橋が登場。観光客に「あのつり橋を渡ってみたい」といった気持ちを起こさせているが、その半面、過疎の村を離れた人たちから「過疎の残がいをみるようで心苦しい」との声も出て、残すか、撤去するか、吊り橋は両論のなかで揺れ動いている。

 …。と。まあ結論は「撤去」だったんですね。

 郷土誌として有名な新聞社で、私も今年度就職試験に応募して見事落選してしまった((笑)記者職は無謀であったろうか。まあ、文章センスがなかったんでしょう。

 以上の引用記事から、これまで不明だった詳細が鮮明になった。

 まず、よっきれん氏の記事のラスト。「火災による通行不能」はほぼ正解であったが、火災発生の原因が、吊り橋が風に揺れることから起きる摩擦による自然発火であったことが浮き彫りになった。しかも、繰り返し橋板の各所が燃えていたことになろう。

 よっき氏の探索でも、主塔付近には激しい風が吹いていることがわかっている。ましてや吊り橋部分の風は湖面上であり、さらに強い風を受けていたことであろう。

 さらに通行禁止となった年が「昭和45年(1970年)」であることが判明した。これまでは50年代との説が通説であったが、少々遡った。橋板撤去の時期についても、昭和52年(1977年)であることがほぼ確定。ワイヤロープに関しては、平成に入ってから撤去されたことが村史より明らかとなっており、それまで旧状を偲ばせるものとしてその役割を発揮していたものが、撤去の方針に傾いたものと推定される。

 今後は、平成年間の橋の撤去について、時期と事情等が明らかになれば、橋を巡る詳細がほぼ判明するだろう。

 それにしても、この橋…。どんな姿になっても強烈なインパクトを我々に与える。

 

 利賀村の住民にとって、近代とは「陸の孤島」からの飛躍を死活の命題として闘った時代であったと、村史は伝えている。小牧ダムの整備により新たな橋を要した村は幾度とない落橋にも負けず、陳情と交渉を続けた。そこには村の人々の熱意と情熱があり、この橋はまさに村の歴史を体現する象徴であった。ところが「現代」に入り、村を襲ったのは過疎化の進展であった。あの日橋を勝ち取った住民の姿は一人、また一人と去っていく。去っていったものたちに朽ちる橋はどのように映ったか。新聞記事は「過疎の象徴」との声を拾っている。

 人はいつまでも「そこにあるもの」に対して意味づけを辞めない。あらゆるものは新鮮さを帯び、やがて朽ちていく。先刻まさに建設を終えた北陸新幹線、新港大橋も時代の荒波に飲まれ、やがては、新しい意味を帯びていくことだろう。その意味ができれば華やかなものであってほしいけれど、それはわからない。

 吊り橋を失い、両岸を結ぶ機能を失った利賀大橋は今もなお、人を引き付けてやまない。見るものに意味を考えさせ、やがて、意味を見出させる。あの橋が結んでいるのは、今を生きる人々と過去に生きていた人々の間の懸隔かもしれない。

おしまい。